ブログ2019.07.29

フットサル日本三国志 第2章 あのチームはどうなった(ルネス学園甲賀フットサルクラブ) その4 ボルドン最後の試合、ボーン77

木暮知彦

その4 ボルドン最後の試合、ボーン77


藤井金山

 2000年12月、第6回全日本選手権関西大会決勝は、設立間もないと言え、歴史あるルネスの流れを汲むボルドンと日系ブラジル人チームとの合体で急速に力を付けたアトレチコマグの対決となった。藤井にしてみれば勝てば6回連続の出場記録となる。

  結果は2-0でボルドンの勝利、藤井のもう一度関西からリベンジの思いが叶うこととなった。

  ほぼ同時期、関東では関東大会の決勝が行われていた。決勝はファイルフォックス対ウイニングドッグとなり、ファイルフォックスが6-3で勝利、選手権の切符を手に入れている。その前に行われた都大会でカスカベウがファイルフォックスを下し、開催地枠の関係でカスカベウが早くも選手権行きを決めている。ウイニングドッグは、こののち、解散をしている。当時は、選手権前にチームが勃発、選手権後に解散という離合集散がたびたび起きていた。本大会でも彗星のごとく現れ、のちの競技フットサル界に大きく影響したチームが参加しており、それがタイトルのチームのボーン77である。

  こうして、2001年2月26日より、駒沢体育館にて選手権は始まった。当時は、まだ16チーム参加で、3ブロックに分かれ、各グループ1位とワイルドカード1位の4チームで決勝トーナメントが行われた。そのBブロックにボルドンとボーン77が同組となっていた。

  ボーン77とは、社会人東海リーグのサッカーチームで、この大会参加のためだけに昨年4月に結成されたチームである。名前の由来は、77年(含む78年)生まれの選手で構成されているので付けたものである。実際、のちにフットサル界に身を投ずることとなった金山友紀(のちにカスカベウ、ペスカドーラ町田)、三輪修也(のちにカスカベウ、ペスカドーラ町田、府中アスレティク、湘南ベルマーレ)、稲田祐介(のちにカスカベウ、バルドラール浦安、ペスカドーラ町田)、GK古庄亨(のちにカスカベウ、ペスカドーラ町田)など、古庄が78年であるがあとは全員1977年生まれである。藤井はのちにマグに移籍、2005年に関東に進出、バルドラール浦安、ペスカドーラ町田に移籍することになるのだが、この時、将来彼らと同じチームになるとは、夢にも思わなかったであろう。

  さて、ボルドンは予選リーグ初戦でなんと7-9で初出場のボーン77に敗れてしまう。むろん、ボルドンも今大会初出場ではあるが、ルネス以来の伝統あるチームであるから、当時は衝撃のボーン77旋風巻き起こると報じられたものである。特に、金山のスピードは圧巻でのちにFリーグではスピードスターと名付けられたくらいである。ボルドンはまさかの初戦敗戦であったが、最終試合のホームズコーポレーションに15-0で圧勝、得失点差でなんとかワイルドカードで決勝進出を決めることが出来た。むろん、ボーン77は1位で決勝トーナント進出である。

 決勝トーナメントは、カスカベウ、ファイルフォックスの関東の強豪2チームと、関西のボルドン、東海のボーン77の4チームで争われた。カスカベウとボーン77、ファイルフォックスとボルドンの準決勝の組み合わせとなり、ボルドンにしてみたら、藤井の思惑どおり、再びファイルフォックスとリベンジの機会を持つことが出来たというわけである。ルネス、アスパと続けて3回連続の戦いである。

 しかし、結果はまたしても2-4で敗れ、リベンジならずで、最終決着が着いてしまった。3位決定戦は、カスカベウに敗れたボーン77と再び対戦、今度は7-2で圧勝、ボルドンの全国大会は3位で終了した。藤井は結果こそ敗戦であったが、納得いくフットサルが出来たのであろう、チームは解散、このあとは個人としてのフットサルに挑むのであった。

 決勝戦はカスカベウ対ファイルフォクスで行われ、カスカベウが4-2で勝利、悲願の初優勝を飾った。この2001年の第6回大会を締めくくりに2000年度は前にも述べたとおり、競技フットサルの元年にふさわしい年で、多くの人材が流動した。第1回大会から脈々と続いたルネス学園甲賀フットサルクラブは、アスパ、ボルドンと引き継がれたが、ここで解散、藤井、安川、原田、福角らは前後するがマグに移籍、関西の強豪として、いずれはシュライカー大阪につながって行く。

 もともと臨時のチームであったボーン77もこの大会限りで解散、しかし、注目を浴びた選手達は、前述したように前後はあるが、カスカベウに移籍、フットサル界に身を投ずることになった。彼らの以降の活躍は周知であろう。

   ファイルフォックスも、カスカベウに敗れ、優勝を逃したこと、日系ブラジル人多用の路線の違いから上村らがチームを離脱、フトゥーロが誕生した(あのチームはどうなったフトゥーロ編参照)。

 すでに述べたが、ウイニングドッグも、全国大会出場を逃したことから解散、結果的に、木暮、岩田らがフトゥーロの抜けた穴を埋めるべく、ファイルフォクスに移籍した。縁は、前々回に紹介したとおり、アスパ、カスカベウが参加したブラジルのバリエルカップに出場した際、ファイルフォックスのオスカー監督、難波田と一緒に木暮が帯同、そこで仲良くなったことがきっかけと言われている。

   このように、2000年から2001年にかけて大きくチームの勢力図が変わっていくわけであるが、同時に選手個人のその後の人生を決定付ける年でもあった。ルネス学園系の見方をすると、6年の長きにわたりフットサルの創生期に影響を及ぼし続けて来たルネス学園甲賀フットサルクラブが、その役目を終えたと言えるのだろうか。

 ちなみに、ルネス学園甲賀フットサルクラブのメンバーでは、藤井健太は冒頭で紹介したINFINITYフットボールスクールの経営、その他タレント活動、原田健司はガットフットサルスクールを経営、安川知宏がそのコーチ、福角有紘は多摩大学フットサル部監督、カスカベウに移籍したGK松原君守は神奈川県大和にあるジオックススポーツアカデミーでスクールコーチ、クラブ監督などに従事、それぞれがルネス時代の経験を活かして活躍している。

 これでルネス学園甲賀フットサルクラブ編は終わるが、貴重な写真としては、雑誌ピヴォより、第6回全日本フットサル選手権大会予選リーグ、ボルドン対ボーン77の藤井金山対決の1シーンとしよう。藤井は、金山の生まれ故郷である鳥取県浜田市をホームタウンとするF2リーグのポルセイド浜田のテクニカルアドバイザーを務めている。

 

木暮知彦

木暮知彦

みんサル運営会社のピープルスポーツ株式会社社長。1999年の第1回の関東フットサルリーグ、伝説のスーパーリーグの立ち上げなどに関わった。自らはFIRE FOXの代表として、リーグ優勝、フットサル選手権の優勝を経験した。元フットサル日本代表木暮 賢一郎の父親でもある。

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