ブログ2020.02.05

日本フットサル三国志 第3章 代表物語 その7 バンコクの悲劇

木暮知彦

その7 バンコクの悲劇


第2回アジア選手権

 バンコクの悲劇とはドーハの悲劇になぞらえて、当時唯一発売されていたフットサル専門雑誌ピヴォで使われた言葉である。ドーハの悲劇は1993年10月、カタールのドーハでアジア地区最終予選、ロスタイム間際にイラクに同点にされてしまい、ワールドカップ出場を逃したことを指すことはあまりに有名である。

 そのバンコクの悲劇の第2回アジア選手権は、2000年5月であった。11月に行われるグアテマレアの世界選手権の予選を兼ねており、3位までが出場できる。

 予選リーグは、日本は強敵イランと同組のグループAに入った。グループAには強敵イランがいる。結果はウズベキスタンに4-2、イランに2-6、マカオに12-1、キリギスに6-0で3勝1敗となり2位通過を果たす。ここまでは予定どおりの戦いである。むろん、1位はイランで4勝0敗である。結果、グループBの1位カザフスタンと対戦、勝てば2位以上で世界選手権出場を果たす。しかし、前半を2-1でリードしながら後半はリズムを崩し、ファウルを連発、藤井のレッドカード退場もあったりして6-9で敗戦、3位決定戦に回ってしまう。

 3位決定戦の相手は、地元タイであった。地元タイの熱狂的応援があったとはいえ、前半は3-2のリードで終えた。しかし、試合内容は押していたが後半にやられ、結局6-8で敗戦、世界選手権出場の夢はならなかった。

<総括>
5月5日 ウズベキスタン<4-2>○ 藤井2、上村、相根
5月6日 イラン<2-6>● 前田、相根
5月7日 マカオ<12-1>○ 市原3、安川3、前田2、相根2、上村、鈴村
5月8日 キルギス<6-0>○ 市原3、藤井、上村、相根
5月11日 カザフスタン<6-9> ● 前田2、市原2、藤井、難波田
5月12日 タイ<6-8>● 難波田2、須田、前田、相根、上村

  アマチュア、経験不足、フィジカル不足といえばそれまでであるが、前半リードしながらあと一歩で世界選手権を後半戦で逃したこと、昨年の戦いぶりからなんとなく行けそうな気分があったことなどから、大会終了後、敗因分析のさまざまな議論が巻き起こった。

 当時、よく言われたことは、プロ意識、気持ちの欠如と競技フットサルの置かれた環境問題であった。前者では、街の「あんちゃん」が日本代表であるとか、アスリートがタバコを吸っていいのかといったものもあった。

  後者は、企業の後ろ盾があるわけでもなく、自らの生活を犠牲にして、練習場の確保から、大会のセッティング、技術、戦術の勉強、取得まですべて選手自らが自分でやらなければならない状況では勝つのは難しいと言ったものであった。要は、アマチュアであるということである。さらに、それが発展して、ならばJリーガーを起用すべきではないかといったJリーガー待望論も出て来た。この待望論は、今ではそんな議論は影を潜めたが、丁度、Jリーガーのセカンドキャリアが問題になっていた時期と重なったこともあったように思う。実際、次のアジア選手権の代表選考はどちらかというと元Jリーガーを起用する方向に振れるのであった。

 ただ、上記の課題は構造的な問題で長期に解決しなくてはならない課題である。しかし、シンプルに考えると油断があったことではないだろうか。第1回アジア選手権のあとの六川の評価にもあったが、アジアを甘く見ている傾向は結局続いていたのかも知れない。たしかに、第1回大会から1年が経過、ブラジルとの試合を経験、フットサルを分かっている気になってしまった傾向は否めない。六川が指摘していたが、12名という限られたメンバーの中でGK3人を割いたことも今にして思えば楽観的であったかも知れない。実際、最終試合はレッドカードで1人少ない人数で戦わざるを得なかった。

 アジアはアジア独特のフットサルがあるということであろう。今回のアジア選手権も油断は禁物である。

 さて、写真は第2回アジア選手権の試合シーンで、日本対タイの3位決定戦、前半15分、前田のキックインを難波田、上村信とつなぎ、最後は上村信のアウトサイドワンタッチのゴールシーンとしよう。この時までは3-1とリード、順調だったのだが。


木暮知彦

木暮知彦

みんサル運営会社のピープルスポーツ株式会社社長。1999年の第1回の関東フットサルリーグ、伝説のスーパーリーグの立ち上げなどに関わった。自らはFIRE FOXの代表として、リーグ優勝、フットサル選手権の優勝を経験した。元フットサル日本代表木暮 賢一郎の父親でもある。

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