ブログ2020.01.06

日本フットサル三国志 第3章 代表物語 その1 その起源は?

木暮知彦

その1 日本代表の起源は?


1989年FIFA室内制5人大会

  いよいよ、フットサルワールドカップの年が来ました。残念ながら、名古屋開催とはならず、遠くのリトアニア開催ですが、日本にとっては出場できるかどうか重要な年になります。そこで、過去の代表活動を振り返り、記録として残すと同時に、応援していきたいと思います。よろしくお付き合いください。なお、代表に関わった選手を始め、関係者の方々が多数登場致しますが、お名前については敬称略とさせて頂きました。ご了承願います。

 そもそもフットサルの日本代表の起源はいつから始まったのであろうか。これをひも解くには、フットサルの起源すなわちサロンフットボールの起源に遡らねばならない。詳しくは「第1章 フットサルの原点 その3 翻弄されるミニサッカー」に書いているが、送るべき代表の世界大会が2つの管轄団体で同時並行的に行われていた時期があったのだ。

 1つは、国際サロンフットボール連盟(FIFUSA)であり、もう1つは国際サッカー連盟(FIFA)である。1980年代に入ると国際的に競技人口が拡大し始めたサロンフットボールの主導権争いが起き FIFUSAは、第1回のサロンフットボールの世界選手権大会を1982年、ブラジル、サンパウロで開催した。その時の参加国は、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、コロンビア、アルゼンチン、コスタリカの南米7カ国とチェコ、オランダ、イタリアのヨーロッパ3カ国、そして日本の10カ国であった。その後1985年にスペインで第2回(12カ国参加)、1988年にオーストラリアで第3回(16カ国参加)が開催された。

 一方、FIFAは、1988年に独自に「ファイブアサイドフットボール」のルールを作り、1989年にオランダで世界ファイブアサイドフットボール選手権を開催する。

 なんと、その3年後の1991年には、FIFAに対抗するようにFIFUSAの第3回大会がイタリアのミラノで開催されている。

 日本はというと、国際紛争から距離を取るために両方の大会に参加していた。FIFUSAの世界大会には日本サロンフットボール協会の派遣という形式をとり、FIFAの1989年の大会は招待ということもあって、日本サッカー協会(JFA)が、当時のJSL(日本サッカーリーグ)所属の本田技研を中心に構成されたチームを日本代表として派遣した。現時点(2019年)のJFAフットサル委員会委員長の北澤豪がメンバーにいたことは有名な話となっている。成績の方は、ベルギーに0-3、アルゼンチンに1-2、カナダに2-6の3戦全敗であった。

 以上の経緯から、代表の起源は、現在の管轄のJFAの派遣および記録も残っているので、1989年のオランダ大会出場が起源ということになろう。ちなみに、FIFUSAとFIFAの主導権争いは、FIFAに統一で終止符を打ち、1994年にルールが統一化され、競技名称もフットサル(FUTSAL)と定められた。第3回大会の2年前である。また、世界選手権がワールドカップの名称になったのは、2008年のブラジル大会からである。

 さて、写真であるが、日本代表の起源である1989年の日本代表の記録はFIFAの歴代成績の記録にも残されている。そこで、FIFAのワールドカップのサイトの記録をキャプチャーしたものとしよう。日本はCグループで全敗だったが、カナダ戦の2-6の2得点は北澤豪とのこと。

 ちなみに、メンバーは以下のとおり。
監督:宮本征勝(メキシコオリンピック銅メダリスト、本田技研工業監督)
GK:今井雅隆、 武田亘弘
DF:神崎幹也、 勝矢寿延、倉田安治
MF:北村邦夫、 神戸清雄、矢藤敏則、 野田知、 江川重光、 北澤豪
FW:安藤茂、 根岸誠一


木暮知彦

木暮知彦

みんサル運営会社のピープルスポーツ株式会社社長。1999年の第1回の関東フットサルリーグ、伝説のスーパーリーグの立ち上げなどに関わった。自らはFIRE FOXの代表として、リーグ優勝、フットサル選手権の優勝を経験した。元フットサル日本代表木暮 賢一郎の父親でもある。

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