ブログ2019.07.08

日本フットサル三国志 第2章 あのチームはどうなった(ルネス学園甲賀フットサルクラブ) その1 新たに始まった別の形 

木暮知彦

その1 新たに始まった別の形


藤井

 皆さんはルネス学園甲賀フットサルクラブというフットサルチームをご存知だろうか。このチームは知らなくても藤井健太という選手なら知っている方も多いと思う、藤井は関西出身のフットサルの元日本代表選手で2011年、ペスカドーラ町田で引退を迎えるまで競技フットサル創世期からずっとフットサル界を牽引した人物として知られている。背番号8は有名である。その藤井が23年前に在籍していたチームがルネス学園甲賀フットサルクラブ(以降ルネスと呼ぶ)で1996年の第1回全日本フットサル選手権の優勝チームである。

 では、ルネスはどうなったかというと、学生チームだっただけに1998年には解散、チームは消滅してしまった。したがって、あのチームはどうなったと言っても今さらなのであるが、当時、主将であった藤井がこの4月にフットボールスクールを故郷の奈良に開設したので、これをもってあのチームは別の形でスタートを切ったとしよう。願わくば、いずれ生徒が成長して全日本フットサル選手権で優勝してもらいたいものである。

 フットボールクラブの名前はINFINTYフットボールスクールといって、奈良市内の富雄南中学校、田原本やすらぎ体育館、天理市内の市立総合体育館で活動、小学生を中心に百名を超える規模でスタートしている。INFINITYという名前は無限大すなわち藤井の背番号8にちなんで付けた名前である。実際、スクールのコンセプトは、「自分で限界を作らない。いくつもの選択肢がある中を自分で考えて判断、行動するチカラを身につける。柔軟な対応力と予測するチカラ、人生を楽しく笑顔にするためにフットボールからライフスキルを学ぶ」となっている。藤井のフットサル人生の経験に裏打ちされたコンセプトではなかろうか。

 フットサル選手のセカンドキャリアとしてスクールを経営する例は多い。藤井の例は最新であろう。古いところでは浅野智久のマルバサッカースクールがある。水戸からスタート、今では茨城、千葉、埼玉など20校に展開している。スクールのチームが2007年のバーモントカップ 全日本少年フットサル大会で優勝したことで有名になった。浅野自身は、関東リーグでマルバFCの監督、選手として活躍、日本代表候補にもなった。次は、阿久津貴久のロンドリーナサッカースクールである。神奈川県下で10校を展開している。阿久津も関東リーグのロンドリーナGKとして活躍、湘南ベルマーレのGKコーチでもある。その他、シュライカー大阪の松宮充義のクリアドール、同じく瀬戸彬仁のCAOSフットサルスクール、村上哲哉のT-DREAM、原田健司のガットフットサルスクール、カスカベウ(ペスカドーラ町田の前身)の林善徹のパラムンド、まだ引退していないが、関東リーグカフリンガ東久留米の柿本右近のカフリンガジュニアスクールなどがある。

 これらスクールの共通点は、サッカー、フットボールと銘打ってはいるもののフットサルがベースになっており、フットサルスクールと称しているところもある。それだけ、小学年代におけるフットサルの有用性が認知されてきたということであろう。

 さて、話を藤井の原点であるルネスに戻そう。ルネス学園甲賀フットサルクラブとは、奈良県甲賀市にある学校法人ルネス学園甲賀健康医療専門学校(現在はルネス学園紅葉スポーツ柔整専門学校)のサッカー専門の学生が集まって結成された臨時のチームである。全日本フットサル選手権があるというので、藤井が呼び掛けて出来たチームだという。

 1996年の第1回全日本選手権というと、当時はまだまだフットサル専門チームは少なく、エントリーしたチームは社会人サッカークラブか大学・専門学校のサッカークラブが主であった。前者には府中水元クラブ(第2回は優勝)、後者にルネスがいたことになる。この傾向は暫く続き、なんとルネスは第3回も優勝してしまう(準優勝はアズーでカスカベウの前身)。

 ルネスは第3回の優勝のあと、卒業もあって解散となってしまった。しかし、アスパFCと名称を変えて、その後もフットサル界に留まり、数多くの影響を及ぼすこととなる。アスパとは、奈良県生駒に位置するフットサル施設であり、卒業するルネスをバックアップすることになったのだ。そして、キャプテン藤井を筆頭にほぼ同じメンバーで第4回全日本選権に臨むが、なんとその年(第4回)初優勝となったファイルフォックスに予選リーグで敗れ、決勝トーナメントに進めなかった(準優勝は前回の写真に掲載されていた筑波大学サッカー部)。

 解散にあたって、2人の選手が関東に移籍することになった。板谷竹生と原田健司である。板谷はもともと関東出身で出身地に戻ったのだが選んだチームはファイルフォックスだった。

 板谷は難波田とともにファイルフォックスのディフェンスの要として活躍、ファイルフォックスの全日本4度の優勝に貢献した。残念ながらファイルフォックスがFリーグ参入ならなかったこともきっかけになって引退、料理人の修行を積み、今は昭島で料理店を営んでいるという。

 原田健司は、第1回のアジア選手権日本代表に藤井とともに選ばれたが、逆に自分の力量不足を感じたのかも知れない。アスパに一時期在籍していたが、板谷と同じ思いで、遅れてファイルフォックスの門を叩いたのだ。その後、関西に戻り、マグで活躍、現在は、前述したようにフットサルスクールを経営している。

 そんな事情のアスパFCであったが、翌年の第5回選手権では、なんと決勝で再びファイルフォックスと当たってしまうのであった。その模様は次回のお楽しみに。

 写真は、当時のルネス学園のホームページの藤井健太の紹介画面にしよう。もう1つは、ルネス学園からASPA FCに代わった第5回全日本選手権の集合写真にしよう。左から8藤井健太、10安川和宏、9山本典城、2毛谷村綱彦、15福角有紘、7GK河野清志である。福角はのちにファイルファックスに入団した縁がある。(写真は雑誌ピヴォより)


ASPA

木暮知彦

木暮知彦

みんサル運営会社のピープルスポーツ株式会社社長。1999年の第1回の関東フットサルリーグ、伝説のスーパーリーグの立ち上げなどに関わった。自らはFIRE FOXの代表として、リーグ優勝、フットサル選手権の優勝を経験した。元フットサル日本代表木暮 賢一郎の父親でもある。

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