ブログ2019.10.18

日本フットサル三国志 第2章 あのチームはどうなった(マルバ) その2 葵の御紋のマルバ

木暮知彦

MALVA葵の紋&浅野

 マルバの歴史は意外と言っては失礼になるが、古い。それは1997年、今から37年前に遡る。1997年の2月に第2回全日本フットサル選手権が開催されたが、その関東予選にマルバは出場しているのだ。恐らく、1996年にチームを創設、茨城県大会に優勝してのことである。

 チームは、SENHA&Co with MALVAというチーム名で出場している。SENHA&Coというとあの「ゆず」の音楽事務所の名前で、恐らくチームスポンサーだったのであろう。その頃、創始者の浅野は、自身のプロフィル紹介でイーストワークエンタテイメントというレコード会社に勤務、綾戸智恵、日野元彦、佐藤允彦らアーティストの発掘、契約などを担当していたとあるから。レコード会社の人脈からその名が付いたものと思われる。浅野、26歳の頃である。

 続く1998年の第2回全日本選手権大会も茨城県代表で関東予選に出場、この時はのちのロンドリーナの母体になるエスポルチ藤沢に敗れ、予選リーグで敗退している。

 1999年3月になると、関東リーグのプレ大会が開催されたが、ここにも茨城代表で参加、確実に強豪チームとしての地位を固めていくのであった。ちなみに、参加チームは、府中水元クラブ、ウイニングドッグ、エスポルチ藤沢、小金井ジュール、目黒FCなどである。実際、2000年には第1回関東リーグが開催され、3位となっている。この頃はリーグと言っても通年ではなく、期間限定(2000年3月5日~26日)でしかも2グループに別れてのリーグ戦順位同士の順位決定戦を行うものであった。ちなみに、第1回大会の優勝は、ガロとプレデターの同時優勝であった。

 一方、浅野個人としても、実力が認められる出来事があった。それは、1999年3月より、マレーシャのクアラルンプールで行われる第1回アジアフットサル選手権の日本代表候補に選ばれたのである。監督はマリーニョで、ファイルフォックスからGK定永、上村、渡辺、アスパからGK松原、原田、藤井、安川、府中水元クラブから鞁島三郎、歳森 浩一郎、中村俊仁、エスポルチ藤沢から市原、相根など錚々たるチーム、メンバーに伍して選ばれたのである。

 もっとも、それだけの実力を身に付けるバックグラウンドはあった。まず、小学校5年から中学1年夏まで読売ヴェルディの下部組織に在籍経験がある。

 実を言うと第2章 あのチームはどうなった、府中アスレチック編の最終稿で読売ヴェルディは優秀なフットサル選手の輩出拠点であることを書いた。例えば、広山晴士、上村信之介、鵜飼孝、小原信也、伊藤雅範、木暮賢一郎、鈴木隆二などである。今回、この原稿を書くにあたって調べて分かったことであるが、浅野智久が漏れていたことになる。失礼をした。浅野は1971年11月3日生まれだから、広山晴土(1971年6月16日生まれ)と同級だったかも知れない。ヴェルディ退団後はヤマハ発動機を経て、1年間、ブラジルサッカー留学、ボタフォゴジュニオールと契約など、その実力は確かなものであることがわかる。

 2001年第2回関東リーグが行われたが、その時のチーム名をマルバ水戸に改名、以降、しばらくはマルバ水戸で関東リーグを戦う。そもそも、マルバとはスペイン語で葵の植物名を意味する。水戸徳川家の家紋・紋章にちなんだものである。なんでも幕末水戸藩の志士たちの情熱と行動力を現在に復権し、剣をサッカーボールにかえ、疾風怒涛の時代を駆けめぐり、グリーンのピッチを縦横無尽に疾風するMALVAの若き戦士たちをイメージして命名したそうである。

 さて、第1回関東リーグのマルバの登録メンバーを紹介しよう。10浅野智久、5岡田秀市、3鹿島信哉、9清水健、6鈴木洋一、4斉藤俊彦、8宮島慶太朗、11高井剛、21杉山哲一、2大津吉徳、12湊啓太郎、13安本竜二、14石川泰司、7鈴木秀生、1根本和典らである(第1回関東リーグのパンフより)。恐らく、何人かは現在のスクールコーチがいるであろう。

 写真の方は、マルバの葵の紋と浅野のプロフィル写真にしよう。(マルバホームページより)

木暮知彦

木暮知彦

みんサル運営会社のピープルスポーツ株式会社社長。1999年の第1回の関東フットサルリーグ、伝説のスーパーリーグの立ち上げなどに関わった。自らはFIRE FOXの代表として、リーグ優勝、フットサル選手権の優勝を経験した。元フットサル日本代表木暮 賢一郎の父親でもある。

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