ブログ2019.07.16

日本フットサル三国志 第2章 あのチームはどうなった(ルネス学園甲賀フットサルクラブ) その2 アスパの解散を促した因縁の対決

木暮知彦

その2 アスパの解散を促した因縁の対決


アスパ日記

 2000年2月6日、ルネスからアスパに代わった藤井軍団は、昨年敗れたファイルフォックスと再び全日本選手権決勝で対決することとなった。全日本選手権も第5回を迎え、これまでの歴代優勝を見てみると、第1回ルネス、第2回府中水元クラブ、第3回ルネス、第4回ファイルフォックスとなっている。もし、アスパが優勝すればルネス系が3度の優勝、もし、ファイルフォクスが優勝となれば2連覇、ルネス系は2連敗ということになる。しかも、ファイルフォックスには、前回書いたがルネス系を古巣とする板谷と原田がファイルフォックスにいる因縁対決となった。関東対関西という点も注目であった。

 また、エポックをいうと、初めて駒沢体育館が使われたのはこの第5回からで昨年までは有明コロシアムだった、 準優勝、3位、4位までフットサル専門チームが入った、フットサルマガジンピヴォの創刊の年だったなど、今日のフットサルの形が見えてきた年であった。

 さて、前置きが長くなったが、結果は2-6でファイルフォックスに圧勝され、ルネス系の藤井軍団は昨年のリベンジはならなかった。当時のメディアでよく言われた言葉にミニサッカースタイルという言葉がある。サッカーチーム出身のフットサルチームを半ば揶揄して、フットサル専門ではないという意味で使われた。サッカーチームがフットサルを始めた頃は、カウンターで攻めるとオフサイドはないし、自ら、スペースを作るためのフェイクや細かなパス交換、ダイレクトパスなどが不要で簡単にスペースを活かして点が取れて勝ててしまうのだ。逆にいえば攻めが単調になり、いずれそれだけでは限界が来る。実際、創刊の雑誌ピヴォでは、「アスパはミニサッカーからフットサルに移行中といった感じがする。この差は大きい。6-2、試合は一方的なものになってしまった」と評されている。

  恐らく、藤井自身もこれは感じていたことだろう。雑誌ピヴォのインタビューで当時の藤井はこう語っている。「フィジカル面、戦術などいろんな面において差があったかと・・・1からやり直しです。」

 その言葉どおり、試合のデータでみると、以下のようであった。

 ファイルフォックスのこの時のメンバーは、日系ブラジル人にチアゴ山崎、リカルド比嘉、BARUERI(現シュライカー大阪監督、元日本代表キャプテン)、ブラジル人にジョナスの名手を揃え、日本人も上村、渡辺、難波田、小野大輔、前回述べた板谷、原田、GK定永など錚々たるメンバーで、得点はチアゴ、比嘉、上村2、渡辺2であった。シュート数も、アスパ合計16に対してファイルフォックス53で圧倒されていた。

 1から出直しを決意した藤井は、選手権が終わった2月、アスパのメンバーを中心にブラジル遠征に出る。ブラジルのバリエル市でブラジルの強豪チームが参加するバリエルカップに出場するためである。偶然かも知れないが、誘ったのは日系ブラジル人チームが数多く参加する天竜リーグを主催しているマリオ安光で、カスカベウとアスパを誘ったのである。皆さんはこの全日本選手権に強豪のカスカベウ(現パスカドーラ町田)が登場していないことにお気づきだろうか。そう、実はカスカベウは神奈川のウイニングドッグに関東予選決勝で敗れ、全国大会出場を逃してしまったのだ。失意にあったカスカベウの甲斐は出直しを図るべく、ブラジルにその回答を求めて参加することにした。この遠征に甲斐とは同じ関西出身で親交のある藤井も乗ったのであろう。

 このバルエリカップの出場チームはグループAがコリンチャンス(オスカーの古巣)、ウインプロ(のちにファイルフォックス小松竜一が留学、日本代表が練習試合も行う)、GM/シボレー、日本のアスパ、グループBがバネスパ(のちに難波田、木暮が留学)、パルメイラス(のちのシュライカー大阪ドゥダの古巣)、アルエリ、日本のカスカベウである。ブラジルの出場チームはトップクラスのチームばかり、しかもこのバルエリカップの合間を縫ってサンパウロFC、ボルドンなどとも試合をした。夢のようなフットサルツアーだった。

 結果の方は、日本の両チームとも大敗、グループリーグ最下位で終わった。しかし、大いなる刺激を受けた藤井は帰国後、関東にもっと刺激をもらいに行きたい、しかし、関西のステータスを挙げたい意地もあると複雑な思いを述懐している。フットサルは情報戦であり、当時は関東とブラジルの情報パイプは太く、これが関東を強くしている側面はある。実際、前回紹介した原田(ファイルフォックスへ)とGK松原君守(カスカベウへ)がアスパから関東に移籍している。結果的に藤井が関東に進出したのは、ずっとあとの2005年末であった。そして、関西の地でもう一度挑戦と思い、気持ちを新たにして、選手権が近づいた9月に新チームを立ち上げる。この続きは当時の関西フットサル事情も交えて次回をお楽しみに。

   冒頭の写真は、雑誌ピヴォに紹介されたアスパのブラジルのスケジュールにしよう。毎日試合で相当ハードなスケジュールである。ちなみに初戦のGMC戦0-16、ウインプロ戦1-12、コリンチャンス戦3-16の成績であった。また、2月17日のボルドン戦は、のちに因縁のチームになる。

 もう一つの写真は、一緒に行ったカスカベウの集合写真にしよう。実は、カスカベウには、ファイルフォックスの眞境名オスカー監督、難波田、ウイニングドッグの木暮賢一郎が飛び入り参加していて、写っている。実は、この3人のブラジル帯同がのちに大きな移籍につながるのである。メンバーは、後列向かって左からオスカー、木暮、難波田、市原、安田、甲斐、遠藤、中野(中野歩)、前列左から黒岩、前田、松原君守、中村、高島の面々である。松原は、アスパから移籍、この遠征に参加していたのである。


バルエリカップ

木暮知彦

木暮知彦

みんサル運営会社のピープルスポーツ株式会社社長。1999年の第1回の関東フットサルリーグ、伝説のスーパーリーグの立ち上げなどに関わった。自らはFIRE FOXの代表として、リーグ優勝、フットサル選手権の優勝を経験した。元フットサル日本代表木暮 賢一郎の父親でもある。

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